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聖戦(せいせん)とは、大いなる自己満足である。

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概要編集

古来人間の社会というのは、他を蹴落とすことによって新たなリーダーが生まれ、成り立ってきた。弱い者は倒され、強いものがのし上がる。あるいは人間に限らずとも、社会はこの図式のもとに成り立っている。そしてそのためには、緻密な策略を立てて滅ぼしたり不意打ちをしたりと、良心に逆らうような手段を使うこともしなければならなかった。

そんな時、良心の呵責に耐えかねた新指導者が自分への言い訳に使ったのが、この「聖戦」という言葉である。

解説編集

「聖」とは「凡人の能力をはるかに超えており、おのずから尊崇の念が湧くこと」という意味があり、「戦」は文字通り「戦い」のことである。つまり「聖戦」とは、「おのずから尊崇の念が湧くような素晴らしい意義を持った戦い」ということになる。ここで、「おのずから尊崇の念が湧く」とは「自分の理想、あるいはそれがもっと高まったもの」ととれ、「戦い」とは「敵対するものを武力で排除しようとする」ことである。よって「おのずから尊崇の念が湧くような素晴らしい意義を持った戦い」とは、「自分の理想や野望を叶えるため、邪魔な奴を武力で退ける戦い」ということになる。

ということは逆に言うと、「自分の理想や野望を叶えるため、邪魔な奴を武力で退ける戦い」をかっこよく言い換えてみたのが「聖戦」なのである。そしてかっこよく言い換えることによって、自分はいい事をしたんだと自分に言い聞かせ、良心の呵責に耐えていたのだ。

悪用編集

しかし最近は、この「聖戦」という言葉を悪用する輩が出てきた。かっこよく言い換えたことによって、自然と人々の共感が集まってくるのを利用するのだ。例としてはテロ組織などが挙げられる。反対勢力を武力で屈服させることを「聖戦」と位置づけ、共感したものは組織に入っていくのだ。「あいつら気に入らないから攻撃しちゃえ」では人は集まらない。当然である。

誤用編集

上記の悪用例において、刃向かう相手はそれなりに規模が大きく基盤のしっかりしたものでなければならない。そうでないと、刃向かうこと自体がどうってことなく、逆に、人々の目にはそれを「聖戦」と位置づけることが非常に恥ずかしく映り、完全に逆効果である。同情などはもらえない。しかしそれを踏まえず、やたらと「聖戦」を連発するやつがいるのも紛れもない事実である。

身近なところでは、「ウィキペディア管理者に刃向かおうと」して荒らしを行い、挙句その成果をまったく関係ない外部サイトに持ってきて「聖戦」と報告する人まで出てくるのである。誤用というより、自己満足である。

現在編集

このような誤用をする人が出てきたこともあり、現在「聖戦」という言葉はガキの喧嘩を中二臭く言ってみただけのものに成り下がってしまったのである。もはや逆効果である。使わないほうがいいのは言うまでもない

関連項目編集